【読書感想】「横浜」をつくった男

横浜を作った男をご存じでしょうか?歴史に詳しい方ならご存じかと思いますが、高島嘉右衛門という方の生涯についての本

 

「横浜」をつくった男~易聖・高島嘉右衛門の生涯

 

 

を読みました。簡単に彼の生涯をまとめてみます。

 

 

高島嘉右衛門は幕末から明治の時代を生き横浜に事業家として名を残し、事業とは別にも易という占いで有名だったため易聖と呼ばれるまでになった男です。

 

幼いころから記憶力と理解力が抜群に優れておりどんなに難しい文章でも3度声を出して読むだけで完全に覚え、師の説明は一字一句忘れることもなかったとのこと。

幼いころに四書五経をさんざん読まされたため14歳ごろになってもうろ覚えではあるが頭には入っていたと。そのため大きな挑戦、決断の前には易をして占って決めています。

 

若いころは材木屋や製鉄を事業として営みます。

ナマズがやたら夕食で出てくることに疑問に思い奥さんに理由を聞いたところ、このところナマズの値段が安いと。

ナマズが安い理由はナマズが大量にとれるから。

なまずが大量にとれるのは何かの前触れではないかと考え易で占います。

その結果、江戸で地震が起きるのではないか、起きた場合は大火災の発生は確実、火災が発生すれば材木の相場が高騰すると賭け、借金をして大量に木材を買い込みます。

後日、大地震が起き、2万両の儲けを得ます。

しかしながら一年後、工事中に暴風雨に見舞われ、材木の流出や顧客の支払い拒否により、儲けもなくなり逆に2万両の負債を抱えることになります。

 

その後、外国人を相手に、国内と国外の交換比率の違いを利用して金貨を売り多めに銀貨を受け取るという方法で儲けていましたが、当時この交換方法が違法。逮捕され、6年にわたる刑務所での生活をます。

刑務所は1畳を8人で分けるような劣悪な環境です。入所時に部屋のボスへ100両を差し出したため気に入られ目をかけてもらいます。

刑務所内でボスを含め、占ったところ「易経」という本を褒美としてもらいます。

易経」は幼少時に何度も読んで居ましたが大人になってからは事業で忙しくアンリ読んで居ませんでした。

やることも無い刑務所で熱心に何度もこの易経を読み込みます。

道具を手作りで作り刑務所内の人間の過去と未来を占いはじめたところ、恐ろしいくらいにあたることにきづきます。

こうして易聖とよばれるまでになる彼の占いの能力は刑務所で完成されていったのです。

 

刑務所を出た後は店を借りて材木商を始めます。店は次第に繁盛し通訳を雇い外国人との直接交渉を始めます。その当時は鎖国が終わったばかりという時代の変遷期、外国語を使える人がすくなかったため外国人からの依頼をうまく形にできない請負師が多かったなか、通訳を通して細かなことまで気が配れる嘉右衛門の交渉は円滑にすすみます。

そのため、横浜の異人館の建築は嘉右衛門と外国人建築家との独占事業となります。

4年間の異人館の建設であげた利益は15万両に及びます。

 

1867年、当時横浜には商人宿の様な旅館ばかりで、政府高官や外国人を受け入れられるような旅館がなかったため、豪華な和洋折衷の大旅館「高島屋」を建設します。

ここで伊藤博文大隈重信大久保利通など明治政府の大物たちと親しくなっていきます。政府高官などと人脈を作る社交場としても利用されました。

お客たちは嘉右衛門の易について知っており、毎度彼に占わせます。嘉右衛門もいろいろな情報を得られこの旅館が事業を行う上で非常に役立ちました。

ちなみに西郷隆盛のみ占いを好まなかったので、こっそりと彼の運命を占ったところ非常に不吉な結果だったため誰にも言わなかったとのこと。

 

嘉右衛門が行ったこととして、横浜の下水道の整備、東京-横浜間の蒸気車の整備(国に提案はしたが民間ではなく国家事業として行うため線路短縮のための横浜港埋め立てのみ行った)、日本最大規模の洋式学校の建設(火災で全焼し廃校)、日本で初めてのガス会社を建設、横浜の地にガス灯を灯した。横浜港〜函館港間の定期航路を開通するが、採算が合わずに翌年中止(数年後に岩崎弥太郎が政府の軍事輸送を一手に引き受け三菱財閥の基礎をきづいた)。高島町遊郭の建設。

 

 

先に説明したように嘉右衛門は実業家としても有名ですが、易断による占いでも特に有名で、今でも「易聖」と呼ばれており事業を引退した後は易の研究をおこない、易占に関する講義をしていました。後に高島易断を作ります。

出獄後のほとんどの事業で占いをし、それに従って成功してきたとされています。また政府高官も征韓論など政治の重要な事は嘉右衛門に占ってもらう者が多かったという。日清戦争日露戦争の占いは国民新聞や報知新聞にも掲載されておりまた、西郷隆盛大久保利通伊藤博文の死期までも当てたといわれています。

 

なくなる数日前に遺言のように残した一言は

「ことごとく易を信ずれば易なしにしかず」という謎の言葉だったとのこと。